【京都ー佐渡】いつかの日に還る場所へ。
まだ、子どもはいないけれど。今を生きている自分の背中が、いつの日か子どもの目に映るならば、すでに子育ては始まっている。まだ、死んではいないけれど。生あるうちに感じたことすべてを携えて逝くのなら、すでに死は始まっている。
いつかお父さんに訊いたことがある。俺が小さい頃、海でどんな風に遊んでた?印象に残っている風景とか、ある?って。すると、お父さんは手のひらを軽く握って、少しずつ、少しずつ、指を開いて見せた。
「浜辺に座り込んでさ。こうやって砂を握ってさ。砂の、ぱらぱら、ゆっくり落ちるのをジーーーッと見てるんだよな。」
そう、らしい。夏の間中、全身砂まみれになっていたのはよく覚えていたけれど、あまり記憶になかった。このやりとりも、数年前のこと。今は、そうやって話すお父さんの光景が、ふと思い浮かぶ。
もうすぐ夏だ。もう、夏かもしれないけれど、俺には、まだだ。
2020年。今年は自分でも想像しなかった今を、少し体調を壊したりしながら、生きている。毎月、お給料が振り込まれる不思議な世界には“休み”というものが存在する。去年の暮れ、会社と契約をする際にある条件を提出した。それは、毎週3日間、そして、佐渡ヶ島に行くための(3月に1ヶ月、5月に2週間、8月に1ヶ月、9月後半から1ヶ月の計3.5ヶ月)休みの希望だった。
話をもらった1度目の電話から3時間ほど考え抜いた長文メールに、ものの数秒で返信が届き「ぜんぶオッケーです。」と、ごくごく手短に、非常にロリポップな文体で了承されたのは記憶に新しい。しかも、それをきっかけに会社ごと週3日休みにシステムチェンジしてしまっていたのを知ったときは、目を丸くして笑った。
だから、もうすぐ夏、もうすぐ夏休みなんだい!
高校を卒業して、浮浪者になった俺に、あの夏休みは訪れなかったし、会社員として過ごした2年間も、あの夏休みは訪れなかった。そして、今日までの7年間、まぁフリーターとでも言えばいいのか、そこら辺の野良猫と同じような感じで生きた日々にも、あの夏休みは訪れなかった。2020年。中身は野良猫むき出しだが、それなりの格好をして、それなりの時間に起き会社へ行き、アイスコーヒーを飲み、キーボードを叩いている。夏休みとは、秋冬春働きなのかもしれない。いっぱい秋をやって、いっぱい冬をやって、いっぱい春をやると、出会える季節。それが夏休み。
ということで、オリンピックよりもレアい、夏休みンピックの到来まであと2週間。ヨーイドンでスタートダッシュを決める気満々の徹です。ルパンを追う銭形のとっつあんばりに、夏を捕まえる気満々の徹です。夢中で追いかけて、夢中で掴んで、両の手のひらに、グッと握り入るものは・・・。
2020年8月1日〜31日までの期間、佐渡ヶ島にて、あなたをお出迎えする整えを拡充します。家2つ。ひとは3人から、僕を入れて4人へ。車は2台から3台へ。夏休みには本気ですが、2020年8月は「共に生きる」ということも本気で考えたいと思います。夏を取っ捕まえたいあなたも、夏に包まれたいあなたも。あらゆるものをシェアーしますので、どなたでもお気軽には来ないで下さい。秋冬春を突破して、ぜひ、ご来夏下さい。
どなたでも、暮らしに来て下さいー。
「浜辺に座り込んでさ。こうやって砂を握ってさ。砂の、ぱらぱら、ゆっくり落ちるのをジーーーッと見てるんだよな。」
もちろん父親は生きているけれど、俺にとってはこの言葉が遺言になると、なんとなく、思う。まさに今自分を形づくるこの五感こそ、先達が遺してくれたバトンで、今世のすべては、この手のひらに詰まっている気がする。あのときの砂の感触を追いかけて、いつか死んだらあの砂になりたい。生ある内に、少しずつ少しずつ自分を預けていって、いつかの日には、そこへ還りたい。
ブログのタイトルにもなっている『クオリア』はyoutubeで茂木健一郎さんの動画を漁っていた時に初めて知った言葉だったー。